「モンゴルカレッジ」の質疑応答コーナーでは皆さんからたくさんのご質問をいただきました。講義時間内で取り上げられなかった質問に対し、4人の先生方から後日ご回答をいただきましたので、この場で公開いたします。講師の先生方には改めて深く感謝申し上げます。
モンゴルカレッジ1日目(Q&A)
清水武則先生
中央大学商学部特任教授、元モンゴル国駐箚特命全権大使
テーマ:日本とモンゴル〜過去・現在・未来
Q:モンゴルの若者たちへアドバイスをくださいませ。<質問者(以下同):社会人>
A:司馬遼太郎先生が語っていた、「モンゴル人がモンゴル人の魂を忘れない限り、世界を照らす国になる」、という言葉を送ります。彼が、モンゴル人の魂をどのように考えていたのかは、逝去された今となっては分かりません。
私なりの考えは、進取の気質を持ち好奇心にあふれ、常に異文化への関心を持ち続け、世界を動かしていこうとする前向きな魂ではないかと思います。
そのようなモンゴル人の魂を忘れずに、しかし、モンゴル人特有の自分中心的な考え方を抑え、自国の置かれた厳しい環境を客観的に理解し、その上で自分自身がどうやってモンゴルのために貢献できるかを考えてほしいと思います。
先ずは、自分自身が人に頼らなくても生きていける生計の道を確立することが必要です。自分が食べてもいけないないのに、他人や国家のために働くなんてことは考えられません。自分自身が幸せになることです。その上で、他の人の幸せのため、国家の繁栄のため、あなた自身の経験を他の人に分け与えてください。
そのような人物になる上で必要なことは、謙虚であること、努力する人間であること、人に対し思いやりを持てる人間になることです。人の成功を羨み、足を引っ張ることが多いモンゴル人社会で、人の成功をたたえ、そこから学ぶ者は何かを考えられるような、そんな心の大きな人になって欲しいと思います。
中野智子先生
中央大学経済学部教授
テーマ:モンゴル国の草原は砂漠化しているのか?
Q1:他の遊牧している国と比較した研究をしていますか?
A1:残念ながら、私自身はモンゴル以外の国を研究対象としていませんので、他国との比較もしていないのですが、米国Rutgers UniversityのEarth Policy Instituteが、次のウェブページで各国の家畜数の変遷を載せているのを見つけました。
http://www.earth-policy.org/data_highlights/2011/highlights14
パキスタンやナイジェリアでもヤギの増加が目立っているようです。もし良かったら、見てみてください。
Q2:ヤギの草の食べ方についての情報はありますか?
A2:一般社団法人 地球緑化クラブのウェブページに、ヤギに関する記述がありました。
http://www.ryokukaclub.com/kaigai/kubutigenin1.html
モンゴルカレッジ2日目
荒井幸康先生
北海道大学スラブ研究センター21世紀COE研究員、一橋大学、亜細亜大学、芝浦工業大学、青山学院大学非常勤講師
テーマ:バス料金とホーショールが1トゥグルクだったころ~民主化直後のモンゴルから今のモンゴルへの変化を考える~
Q1:広場からチョイジンラマ寺院までのエリアが風水で大事な場所だと聞いて面白かったです。モンゴルにも風水の考え方があるのでしょうか?<日本人>
A1:風水の考え方は、20世紀の中頃までは強く残っていたようです。その考え方がなくなって、社会主義が終わった後、龍脈(※)などを考慮せずに建物が建てられていったことで果たしてどのような影響が出るのかはとても不安です。まあ、当たるも八卦当たらぬも八卦なのかもしれませんが、こういう時は、担げるだけの縁起は担いだ方がいいようにも思います。
※龍脈(りゅうみゃく)=風水用語の一つ。大地の気は山の尾根伝いに流れると考えられている。その流れが龍のように見えることから龍脈と呼ばれる。(ハワリンバヤル実行委員会追記)
Q2:(先生が赴任した1990年代前半の)政府状況はまだ安定していなかったのですか? スフバートル広場でデモとかありましたか?<日本人>
Q2:スフバートル広間で目立ったデモがあったのは民主化の時で、先生たちのストライキの時には政府庁舎前でのストライキはなかったように思います。ただ、スフバートル広場も今のように整備された状態ではなく、ところどころアスファルトが割れていて、そこから草が生えているようなメインテナンスの行き届いていない状態だったように思います。
Q3:1992年当時、電話などモンゴル人との連結はどのようにしていましたか?<日本人>
A3:電話はほとんど普及していませんでした。あるのは職場などだったので、勤務先の高校の門番のところにある電話を使わせてもらったのを覚えています。ちなみに、電話料金は月の定額制なので、長電話している人たちも多かったような。あと、一つの電話番号を二つあるいはそれ以上の家庭でシェアするということも行われていました。モンゴル語では「サラー」と言い、電話をかけた相手が、「サラーです」と言ったら、一度電話を切ってもう一度かけ直す。で、長く出ないと、また同じ人が出て、「どうやらいないようだよ」というやりとりもずいぶんあったように思います。携帯電話を持っていませんでしたから、突然友人がやってくることもあったし、突然訪ねるということもよくやっていたように思います。それでも、鷹揚に歓迎してくれ、さらに食事まで出してくれる、そういうモンゴル人をすごいなあと思ったことは何度もありました。1995年以降になると、困窮して食事を出してくれない家庭もありましたが、1992年あたりだと、結構、出すのが義務であるかのように思っている人ばかりで、急いでいるからと、お茶も飲まずに出ていこうとすると怒られた、そんな経験を何度もしました。ある種遊牧民の伝統として突然の来客を歓迎する、そんなものがまだ残っていた時代だったように、振り返ると思えてきます。電話とは関係ない話をずいぶんしてしまいました。お許しください。
Q4:日本人が現地の給与で働くのはとても大変そうだと感じました。やはり、あまりお勧めではありませんか?<日本人>
A4:なにしろ、その当時は中学校の先生の給与は8ドルでしたからね。ホーショールやボーズもずいぶん安かったように思いますが。他の日用品とか買うと足が出ました。結局のところ、ずいぶん自分が持ってきたお金を使ったと思います。まあ、調査のつもりで入ったので、それはそれ、僕は気にしませんでしたが、給料でやっていける状態ではなかったですね。今はどうだかわかりません。ただ、モンゴルの人たちを見ていると、どうにかやりくりしているのかなあと思ってはいます。一生住み続けるなら覚悟は必要だと思います。それはモンゴルに限らずどこでも同じかもしれません。当時のモンゴル人に皮肉っぽく「限られた年月だけそこで過ごすというつもりなら、それは『冒険』でしかない。そこに住み、そこから出られない人にとってはその地獄が日常でも、君はいつか出ていくのだから、いいよな」と言われたことは、そこはかとない罪の意識と共にはっきりと記憶に刻まれてます。
Q5:1990年代のモンゴル人の性や価値観と現在のモンゴル人の性格や価値観で何かが変わった所があると思いますか?<モンゴル人留学生>
A5:性に関しては現在の様子がわからないのですが、性というか、遊牧民の家に行ったら、こいつはお前にやる、みたいに自分の娘をあてがおうとした親がいたのはとても複雑な感情を呼び起こしたことを覚えています。その当時の社会状況がそう言わせたとも思えるのですが、3月に大阪で見たドイツ在住のモンゴル人映画監督ウイセンマーさんの『ブラックミルク』でも同じような状況で、女性の地位の問題を扱っていたので、もしかしたら変わっていないのかなとも思ったりします。1992年で思い出すのは、当時学生結婚が当たり前で、22歳位までに結婚できる相手がいないとかなり焦っていた女性もいたことです。結婚年齢もずいぶん上がったと思いますし、結婚に関する考え方はずいぶん変わって、昔よりゆったり構えられるようになったのではないでしょうか? 印象を語るような形になりましたが、こんなことを感じています。
――感想――
時代ごとに比較してあるのを聞いてとても懐かしいです。また今後とも宜しくお願いします。<モンゴル人、ヤダムオド>
A:こちらこそ、昔語りをできる相手がいればいろいろとお話したいですね。
寺尾萌先生
東京都立大学大学院人文科学研究科専門研究員
テーマ:現代モンゴルの乳文化ー西モンゴルの乳製品づくりから
Q1:シミンアルヒは、馬乳を搾らない地域だけでつくられるのでしょうか?<日本人>
A1:馬乳を利用する地域でも、馬乳とは別に、ウシやヤギ、ヒツジの乳を利用してシミンアルヒをつくっています。
Q2:シミンアルヒはウォッカよりアルコール度は低いのですか?<日本人>
A2:ウォッカは40度近くありますので、シミンアルヒのアルコール度数(5~10度)はそれよりもだいぶ低いです。
Q3:乳製品の話をありがとうございます。バヤンウルギーでシミンアルヒを大切に振る舞われたことがあります。一方結婚式に参加した時には、ウォッカをたくさんいただきました。シミンアルヒは大量に作れないのですね。<日本人>
A3:宴の席でシミンアルヒよりもウォッカを沢山ふるまうというのは、シミンアルヒが希少だから、という理由もありますが、ウォッカが安価で大量に手に入るものになったので、 宴でふるまう酒の量が増えたということもあると思います。
私が調査していた地域では、結婚式の宴の際も、重要な儀礼として最初の1〜2献は必ずシミンアルヒをふるまっていました。
Q4:モンゴルでシミンアルヒを飲みたい時は、どうすればいいですか?<日本人>
A4:牧畜民のお宅を訪問したときに頂くという幸運な機会に恵まれることを除けば、ローカルな市場の乳製品売り場にいって聞くと、売ってくれる場合があります。最近は輸出も視野に入れたシミンアルヒの製造販売も出てきたようです。
Q5:現地に行って協同しながら研究を行っているとおっしゃいましたが、このような情報を得られるにはどれぐらいかかりましたか?<モンゴル人留学生>
A5:フィールドワーク1年目には、乳製品づくりの様子を見ても詳しいことは分からず、仕事を手伝わせていただいても失敗ばかりでした。2年目からは自分でも作業の意味を理解して、いろいろと質問をしながら乳文化について調査をすることができました。
基本的にはホストファミリーとその親戚の家族を中心にいろいろなお話を伺うことが多く、日常生活の中で学んでいきました。
Q6:とても面白かったです。味見をする機会がないのが残念です。伝統的な皮袋での発酵が廃れてプラスチック容器利用が増えている理由はなんですか?<日本人>
A6:牛皮革製のものは、乳製品をつくらない時期にうまく管理をしていないと劣化してしまうので、替えるタイミングでプラスチック容器を利用し始めることが多いのではないかと私は考えています。
新しくアルハト(フフール)をつくるには、冬に屠畜したウシの皮を取っておいて、夏になめして、加工します。知識や技術が必要ですし、手間がかかります。
プラスチック容器は必要なときに手軽に入手できます。洗って使えるので衛生的だし、軽くて蓋を閉められるからキャンプの移動にも便利、という意見も聞いたことがあります。
ですが、アルハト(フフール)だからこそ酒造りがうまくいくと考える人もたくさんいます。蔵付き酵母、家付き酵母のように、アルハトに乳酸菌が住み着き、乳がよく発酵するんですね。
別の地域ですが「馬乳酒づくりにフフールを利用しよう」という伝統文化振興活動をしているNGOもあります。
この活動の成果もあって、2019年には「フフールでアイラグをつくる伝統的な技術と関連する慣習」がUNESCOの世界無形文化遺産のリストに登録されました。
Q7:長期間滞在調査したバヤド人のゲルの場所はどのあたりだったのでしょうか?オブス県ウランゴムを起点にモンゴル留学生の車で国境の岩塩地帯、およびオブス湖近くのゲルに泊まったことがあるのでお聞きしたいです。<日本人>
A7:いろいろ移動しているので、ゲルの場所というか滞在した郡の場所ということになりますが、位置的にはオブスノールとヒャルガスノールの間くらいです。岩塩地帯・オブス湖畔というのは、ダブスト郡のことですね。ちょうどオブスノールの対岸あたりにはたまに滞在していました。
Q8:シミンアルヒは特別な飲み物で、酌人が先ず、火の神、天の神に感謝を示すとのことでしたが、地の神には感謝をしないのでしょうか。モンゴル人とアルヒを飲むとき、必ず盃に薬指(?)を浸けて天の神、地の神に感謝を示すように、しぶきを飛ばしてお祈りをするのを見かけます。<日本人>
A8:今回は、婚姻儀礼での酌人(つまり飲み手ではない人)のふるまいについての説明でしたので、普段アルヒを飲むときとは異なる慣習について言及しました。儀礼の場で酌人が酒をふるまうときには、まず炉に、そして天に酒を献上してから、参列者にふるまいます。
ちなみに、火の神というのは、厳密には炉=家の神で、婚姻儀礼において重視されているのはもちろんですが、家飲みでウォッカなんかを開封したときにも、炉が出ていればまずそこに献上する場合もあります。
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